公益財団法人三島海雲記念財団

Mishima Kaiun Memorial Foundation

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三島海雲学術賞フォローアップインタビュー

これまでの三島海雲学術賞受賞者の方に、ご専門分野や受賞研究、最近のトピックスなどをお聞きするシリーズです。今回は2016年度(第5回)受賞 人文科学部門で受賞された杉山 清彦先生です。

「中国の清朝」から「中央ユーラシアの大清帝国」へ杉山 清彦
東京大学大学院総合文化研究科・教養学部 准教授

満洲(マンジュ)人が建てた「大清」という「帝国」

清朝、というと、どのようなイメージが浮かぶでしょうか。──ラストエンペラーで知られる「中国最後の王朝」。
アヘン戦争に始まる「落日の中華帝国」。しかしそれらは、いずれも「中国」の王朝──漢文を綴り、儒教を尊ぶ文人官僚が動かす国──としてのイメージにすぎません。

実は、この王朝を建設したのは漢人(漢民族)ではなく、かつて「女真」と呼ばれ、自ら「満洲」と名乗った、東北アジアの森林地帯に住まう人びとでした。満洲とは「マンジュ manju」という民族名に当て字した漢字表記(したがって、本来地名ではありません)で、彼らマンジュ人たちは、漢字・漢語ではなくマンジュ語を母語とし、それをモンゴル文字を改良したマンジュ文字で書き綴りました。

私は、このマンジュ文字・マンジュ語で書かれた記録を主な史料として、17世紀にマンジュ人がどのような国家を建設し、いかに大帝国に発展させていったかを歴史学的に研究してきました。その国家の名が、マンジュ語でダイチン、漢字で大清という国号です。第5回三島海雲学術賞を授けられた拙著『大清帝国の形成と八旗制』において、この国家を「大清帝国」と呼んでいるのは、中国歴代王朝の一つとしてではなく、モンゴル帝国やオスマン帝国などと同じ土俵で考えようとする意図から、「大清」と名乗る「帝国」という意を込めたものです。

ユーラシアの武人政権として大清帝国を見る

その帝国形成・運営の中核となったのが、「八旗」と呼ばれる軍事組織でした。
八旗は、マンジュ人を中心とした軍事集団であるとともに彼らが所属する社会集団・身分集団でもあり、清一代を通して支配階層とその領民を構成しました。たとえてみれば、日本の武士や藩のようなものです。

一方で、この制度はマンジュ人の独創というわけではなく、モンゴル帝国に代表される、中央ユーラシアの軍事=政治体制の系譜上に位置するものでした。そのような点から、私は、「中国の清朝」ではなく「中央ユーラシアの大清帝国」と呼ぶべき姿こそが、この国家の原初の実像であったと主張しました。

そのように視座を転換することは、この王朝の評価に見直しを迫るだけでなく、近世・近代の世界史の見方を変えることにもつながるでしょう。
私は、大清帝国と近しいルーツをもつモンゴル帝国やサファヴィー、ムガル帝国などとの比較や、同時代の武人政権としての豊臣〜徳川政権との比較に関心を広げています。

 

困難な時代にこそ求められる、歴史学を通して培われる資質

このような成果と射程は、一次史料に密着して情報を吟味する姿勢と、広大な空間と長大な時間の中で物事を捉える視座という、歴史学を通して培われる力に拠って立っています。
そしてそのような力は、真偽も定かならぬ雑多な情報が錯綜し、見通しが立ちがたいコロナ禍下の現在においてこそ、必要とされている資質ではないでしょうか。

コロナ禍の拡大によって、震源地である中国での現地調査や国際交流は困難な状況が続いています。しかし、歴史学は宝探しではありません。
むしろ、新出史料に頼らずに精緻な文献考証と柔軟な着想とによって研究を深める機会ともいえます。
今こそ、着実な成果を挙げてきた日本の歴史学がその力を発揮すべきときだと思っています。

2021年12月10日

杉山 清彦
東京大学大学院総合文化研究科・教養学部 准教授

2000年 大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了、博士(文学)
2004年 大阪大学大学院文学研究科助手
*2005年 駒澤大学文学部 専任講師(2009年 准教授)
2011年 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部 准教授